第160回芥川賞を受賞した『ニムロッド』は、仮想通貨(暗号資産)のマイニングに携わることになった中本哲史を主人公にした作品。仮想通貨やブロックチェーンという新しいテクノロジーをモチーフにしたことでも話題になっている。作家の上田岳弘氏は、なぜ仮想通貨をテーマに選んだのか、ブロックチェーンをどのようにとらえているか、どんなことを意識して作品作りをしているのかを聞いた。
モノとして存在せず、データだけのはずなのに実際に価値を持ち、
現実に影響を与えているのがおもしろい
<僕が就任したのは新設された課の課長だ。ただ、今も元々のサーバーのサポート業務は続けている。/こんな無名の会社にあっても、役職というのは不思議なもので、あるのとないのとではやはり気分が違った。課には僕一人だけしかおらず、そもそも社長の気まぐれでできたような課だとしてしてもそれは変わらない。「金を掘る仕事」というのが、僕の新たな課の担当業務だ>
ある日、社長に突然呼び出され、“金を掘る部署”つまり仮想通貨のマイニングを行なう新設部署の責任者に任命された主人公・中本哲史(なかもと・さとし)をめぐる小説『ニムロッド』(講談社)。同作でブロックチェーン技術を使った仮想通貨を小説のテーマにしたきっかけは、「仮想通貨はモノとして存在せず、価値がデータとして記録されているだけにも関わらず、実際に価値を持ち、現実に影響を与えていること」であると上田は言う。
「仮想通貨が面白いのは単に想像のフィクションではなく、現実に力を持っていること。そして、現実で成り立っている以上は、必ずリアリティーがある。それって、なんだろ、どんな事が起きているんだろうっていうことを理解し、作品に取り込めば新しいリアリズムみたいなものが出来るのではないか、というのはありましたね」
上田氏のパーソナリティとして面白いのは、FX(外国為替)取引は、人々のコミュニケーションでもあると捉え、そこに人間の思惑などを読み込んで楽しんでいるところ。
「趣味程度ですが、FX的なものが好きなんです。
例えば、ドルを買う時はFRB(The Federal Reserve Boardの略、連邦準備理事会)が何を言っているか、どういうメカニズムで、対ドル円のレートが変わるかを研究する。これは、ある種のコミュニケーションで、そういうのが面白いし、小説のためになるかもと思って始めました。ただ、どうもトルコリラだけは勝てない(笑)。他の通貨はほぼ負けないんですが、トルコリラだけはどうも読めないんです」
実は2014年に『新潮』に発表した「惑星」(現在は『太陽・惑星』に収録)の取材もあって、彼の地を実際に訪れたのだとか。
「(トルコでは)政治と中央銀行の歩調も合っていなくて、思惑がない。なのに、めちゃくちゃ高金利で、ボラティリティ(価格変動の度合い)が高すぎて、わけがわからない、って感じですよね。たぶん、モノの価値と金額が合ってないし、政策と金利の実行価値も合っていないので、丁半博打のような感じがしてくる。
だから、『惑星』という作品はオリンピックをめぐる話でアテネとトルコを舞台にしたかったし、トルコリラもよくわからないので行ってみることにしたんです。
僕が行ったとき当時は1円あたり55トルコリラだったので、3トルコリラの鯖サンドが、150円くらい。でも、いま(トルコリラ)は19円なので、サバサンドにすると60円です。こんなにボラティリティが高いと、あの国はどうなっているんだって感じになりますよね」
ただし、そのボラティリティの高い市場にも、最終的には参加している人々がいて、様々な思惑が交錯して、価格が形成されていく。そういう心の動きのようなところに、上田は作家としての興味を感じているようだ。
生命の誕生と、仮想通貨から価値が生まれることの類比
『ニムロッド』で、ぜひ読んでいただきたい場面は、主人公が過去に辛い経験を持つ恋人とベッドを共にするシーン。上田は、ブロックチェーン技術による仮想通貨はただのコンピュータプログラムであるにも関わらず現実に力を持つ通貨としての価値を生み出すことと、生命の誕生を交錯させて描いている。
「DNAも要は塩基配列で、それもコードです。どういう塩基配列のときに、どういう生命が生まれるのかは誰もわからない。ビットコインもただのソースコードと、それが動いているプログラミングのオン/オフがあるだけで、なぜそこに価値が生まれるのかがわからない。生命とビットコインに同じように価値が出てくるというのがリンクして見えたんです。
僕は起こっているものごとを徹底的に分析し、物語にはめ込むのではなく、現象として、描写し、文章に写すというか、転写する感じが好きでなんです。だからなのか、現代アートっぽいっていわれることもあります」
20世紀の芸術は美術館などで、照明や空間が整えられたところで作品として置かれていたが、21世紀に入ってからの芸術は、いつ、どこで、誰が、その作品を展示したかという文脈が問われるようになっている。上田の作品は登場人物がフルネームで表され、『iPhone 8』や『iPhone X』など、固有名詞が次々と現れてくる。これにも彼らしい狙いが秘められている。
「(作品の中に)固有名詞を出したほうが、その場が制約されてリアルに近づくんです。例えば、『iPhone X』にある機能を、『iPhone 8』で書いたらダメじゃないですか。そして、そこの差で物語とか、台詞が変わるかもしれない機序がある。その緊張感がリアリズムにも反映してくるし、時代が経って見たときに懐かしいというのもある。また、そういう緊張感がある作品のほうが、おそらく普遍性が生まれると思うんです。なぜなら実際、(作品で描かれた固有名詞の)それがモノとしてあったわけだから、それが出て来るまでの時間と、それがあった今という時間を厳密に活写していくことで、おそらく未来はこうなるという矛盾のない台詞であったり、情景描写になっていく。そういうのが、非常に助かるので、極力具体名を出しています」
上田が『ニムロッド』を発表し、芥川賞を受賞してからブロックチェーンや仮想通貨の界隈の人との交流が広がったという。年号が平成から令和に変わった今、こうしてブロックチェーンのことが小説の舞台となったことが話題となり、それが業界でも注目されている。将来『ニムロッド』を読む読者は作品を読みながら、この時代の空気感を感じるのだろうか。上田の作品が、現代アートのようだと言われる所以は、彼の作品が時代とシンクロしているようなリアリティーがあるからなのかもしれない。
上田岳弘氏
1979年、兵庫県生れ。早稲田大学法学部卒業。2013年、「太陽」で新潮新人賞を受賞しデビュー。2015年、『私の恋人』で三島由紀夫賞を受賞。2016年、「GRANTA」誌のBest of Young Japanese Novelistsに選出。2018年、『塔と重力』で芸術選奨文部科学大臣新人賞を受賞。2019年『ニムロッド』で第160回 芥川賞を受賞する。
取材・文/編集部 撮影/干川 修