液晶ディスプレイを支持体に、ペインティングやインスタレーション作品を制作するアーティスト・Houxo Que(ホウコォ・キュウ)。
彼の作品で特筆すべき点は、光の重要性だ。その背景は、現代社会の中で我々が普段目にする光の多くがスマートフォンやパソコンといったディスプレイから発せられていることに起因している。
そしてそれは、インターネットを通してこちら側と向こう側の世界をリアルタイムに繋いでいる現代社会を象徴しているとも言えるだろう。
今回は、〈ArtHub.jp〉代表の野呂 翔悟氏が制作の動機やアート業界におけるブロックチェーンの可能性を伺った。
─今の制作活動の動機について教えてください。どのようなモチベーションで取り組まれているのでしょうか。
最近は、自分がやりたいか、やりたくないか、を全然考えなくなっています。やらなければならないかどうか、です。
液晶ディスプレイの絵画の研究なんて、僕以外誰もやっていないですし、僕がやらなかったら誰もやらないことなので、やるしかないか、と。大げさに言えば「未来の人間に対する責任」みたいなものを感じるときもあります。
過去の人間たちが残してくれたものを、私たちは資産にして生きているはずです。資産と言うより「達成」や「資本」と言うほうが正しいでしょうか。それらがあったからこそ、今私たちの生活が実現されている。
だとしたら、美術の分野の中で自分ができることは何ななのか、それがある程度定まってきているのであれば、歴史の中にいる人間として、もうやらざるを得ない。
─過去の様々な遺産を糧にし、なにかを創造しなければならないという使命感のようなものに駆られているようにも聞こえます。
単純に言うと、僕の場合はあらがえなかったんです。これ以外のことをやるのが嫌だった。
それにアーティストとして生きるのが自由な生き方かと言うと、そんなことはないですよ。アーティストも、アートの枠組みに従って生きたりもしていますし。
だから、結局は単純なことで、制度の中にいるかどうかよりも、自分自身のミッションに誠実に、とにかく後悔しないようにやるしかないんです、前を向いて。
─Houxoさんのようにアートに関わるお仕事をしている方が、お金や稼ぐことについてどんな考え方をお持ちなのかを伺えますか。
僕は、自分の仕事はお金から遠いことをやっているとは思っていません。作品を売る場合、それは美術作品といえどもコモディティなんです。
じゃあ、コモディティとしてどういう価値があるかというと、歴史的な価値や精神的な価値だったりを付与できる。美術作品とは、そういう意味で少し特殊な基準を備えたコモディティとは言えますね。
だとしたら、「液晶ディスプレイにリンクされていて、絵画が高額に取り引きされる状況」って、資本が発生する瞬間のダイナミズムとしてめちゃくちゃおもしろいなと思います。
基本的にはここまでグローバルに広がった時代の中では資本主義から逃れられないと感じます。だから、この資本主義について僕なりに答えるとすれば、その中にあってその欲望を考えることが大事なんだと思います。
─作品を作るときは、これが売れるだろうなと思って作ることもありますか?
時と場合によります。売れるものの中から作るときもありますし、「こういう作品が売れるようにすることがおもしろいから、売れるべきだ」って思って作ることもあります。
シリーズによってはどういうものを作ればプロダクトとして流通できるかをリサーチして、色彩やモチーフを設計している場合もあります。
─ブロックチェーンについては、どんな印象を持っていますか。
ブロックチェーン技術自体は僕らの業界でも、例えばスタートバーンさんなどが使い始めていますね。技術者の方から簡単な概要を聞いたことはあります。
─ブロックチェーンはアートのシーンにおいて発揮できる強みはあるんでしょうか。
一部の人にブロックチェーンが良いと思われている点は、それぞれの新しい経済圏が作れる可能性があるところです。
分散化していけば、GoogleやFacebookなどによる支配的な世界から変われるのでは、とされています。しかし僕のイメージだと、グローバル化が広がっていったあと、最終的には身体というもっとも“私”に近いホストについて問うような、ローカル化していく流れになるんじゃないかと。
そういう揺り戻しが来たとき、ブロックチェーンがよりおもしろくなるような気がします。
─なるほど。そこまで行くんですね。
もう少し洗練されたモデルになるかもしれませんが、身体の中にいる“私”という感覚の存在を分散的に記述するような、そういったかたちで残っていくのではないかと。
今はすでにSNSが広がりすぎていて、オンラインサロンのような閉じたコミュニティや、閉じた雰囲気が増えている。今僕が述べたようなイメージの過程で、一時的に個人単位での「鎖国の時代」がまた来るんじゃないかなという思いがあります。
─Houxoさんは、新しい時代では、人間はどうなると思いますか?
技術的な進歩は文明そのものが破壊されない限り、戻すことはできません。戻れないんだったら、技術をより良く使うしかない。そもそも技術そのものに善悪はないわけですし。
─こういう世の中が変わっていく中で、次の時代の価値はどのようなものになっていくと思いますか。
人間的な意味で言えば、ずっと変わらないんだと思います。
人間そのものが変化していないので、どんなに環境が変化しようと、人間と人間の交換可能な価値、または交換できないものや保証しなければいけないものは変化しないはず。私たちは、環境そのものが人間に変化を与えるだけの時間をまだ経ていないんです。
環境が生物に影響を与えるのは10万年単位。私たちの歴史は数千年しかまだないものですから、そういったことを論じられるほどの時間的に蓄積がない以上、人間は今まで繰り返してきたことの中で、変わらずやっていくんだと思うんです。
─では、その「変わらないもの」とは具体的に何なのでしょうか。
例えば、どうやって社会を営むか。人間は社会的な生物で、社会や集団という枠組みを戦略的に構築できる。
自分たちの意図や他者の意図を読み取ることができるし、それを継承して蓄積することもできる。
だとしたら、社会を営んでいく上で、継承されてきた取り外し不可能なパーツが変わらないものなのだと思います。個人的には技術的な進歩を楽しんでいますが、人類が今まで生きた時間を考えると、技術そのものが人間を大きく変えることはないだろうと思うんです。
インターネットが10万年続いたら、人間が変わるのかもしれませんが。
─なるほど、その視点はなかったですね。
有史だと2000年ちょっとしか経っていませんし、古代まで遡ってもおおよそ18,000年から10,000年前年ぐらいですよね。
大きな変化が起きるのは、億単位の時間が必要だと思っています。そういう経験をまだ人類は一度もしていない。そんな中で自分たちが変われるかどうかというのは、実は自分たちの主体的な意思とは関係ないことなんだと思っています。