偶然性を豊かさとして受け入れる社会のために

2019.05.14 [火]

偶然性を豊かさとして受け入れる社会のために

出生地のニュータウンを題材にした映像作品『バーリ・トゥード in ニュータウン』や、福島・小名浜を歩く『浦島現代徘徊潭』といった作品を発表してきた現代美術家・中島晴矢。

私たちの生活と切り離すことのできない「街」を題材とした作風の彼は、変わりゆく今の世の中をどんな目線で眺めているのか。アート系プロジェクトチーム〈ArtHub.jp〉代表の野呂 翔悟氏が、アーティストとしての出発点から、彼の描く理想の世界の形を訊ねる。

 

ーアートの世界を目指したきっかけは?

高校時代から文学・美術が好きで、表現するのも好きだったんです。

卒業式のときに、三島由紀夫のモノマネをやったのが初めてのアート・表現ですね(笑)。

その後、浪人して行った予備校のクラスの「芸術文化系論文」にはまって、受験勉強しないで芸術についてずっと考えていました。

 

ーそれまでは大学を目指してた?

はい。結果的に大学の文学部には入ったんですけど、同時にアートもやりたいと思っていました。

予備校時代の先生が神保町にある美術学校でも先生をしていたので、そこに出入りするようになって。

3年くらい通って、展示をやったり作品を作って発表するっていうのをずっとやってきました。

同時に予備校で知り合った仲間と渋谷で渋家(シブハウス)というシェアハウスを始めました。

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ー美術学校でやりたかったことは現代アートだった?

そうですね。僕、もともとワナビー体質なんです。

自分の中にいろんなワナビーがあって、それを起点にした活動をやりたかったんです。

絵を描くでも、文章を書くでも、映像を撮るでも、シェアハウスを運営するでも、なんでもやりたいことをやる。

そのやりたいことをなんでも受け入れてくれる受け皿が「現代アート」だったんです。

 

ーワナビーが出発点なんですね。

そうですね。僕の現時点での代表作に「バーリ・トゥード in ニュータウン」という、ニュータウンの街中で、僕がプロレスラーとなってひたすら路上プロレスを続ける映像作品のシリーズがあって。

中学生くらいからプロレスラーに憧れてジムに通っていたんですけど、マッチョにすら全然なれなかった(笑)。

この作品は、その思いをアートの中で実現したものです。

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ー中島さんの中では、どういった文脈にある作品なんですか?

僕の作品は都市論的なもの、街や風景に対してどうアプローチするかを一つの軸にしています。

ニュータウンは自分の出身地でもあって、きれいで住み心地のよい、閑静な街。

だけど、ツルリとしてて面白みがない街でもある。そこに違和感があった。

この作品では、整った都市に対してプロレスという行為を用いてかく拌することで、 日常を非日常化したかったんですが、やはり日常性の基盤はやっぱり分厚くて…。

僕らがプロレスをして、人の家のシャッターにぶつけたり公園で暴れたりしても、ニュータウンの日常は崩れない。そのあがきを映像に落とし込みました。

 

ー今後もそういった現実に対して、変えようと強く思いますか。

「変える・変えない」はアートによく結びつく話ですが、現実的に変えたいと思ったらアーティストよりアクティビストになりますよね。

それを選ばずアートとしてアプローチするのであれば「その時代の中で主張する」ことになるわけです。メッセージを込めて、隠したり、入れ込んだりしてパズルのピースとして残していくことが、あとあと意味を成してくるんだろうと思ってます。

 

ー自分の表現欲と、世の中からの価値や評価とのバランスを考えて制作していますか?

もちろん、価値のある・なしは考えてます。観客のことは考えずに自分のやりたいことだけをやるっていう作家もいるでしょうし、それは否定すべきものではないですが、僕は見た人にどういうエフェクトを与えられるかを重視していて、その意味で単なる自己表出をしているつもりはありません。

作品をどうパッケージして見せるか、見た人がどう変わるかに賭けています。

アートは自由な自己表出だと思われがちですが、決してそうではなくて。

専門性やコンテクスト、歴史の積み重ねがあって、その中で現代に作品を接ぎ木していくイメージです。

すでにある幹に対して枝を注いでいく。その意味で原理的に社会批評性、美術そのものに対する懐疑的なまなざしを含んでいます。

現代アートというのは、ある種の文脈の中で自分のできる作品を作ることだと思っています。

でも、その中でも「先端の部分」をやることは絶対に必要だと思っていて。

エンターテイメントよりも先端性。お金にはならないこともあるし、だからこそ先にやる。実験を繰り返す科学者みたいなイメージです。

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ーそういう試行錯誤をしながらも、制作という行為が社会の豊かさへつながるよう意識していますか?

そうですね。社会が、人間がいかに自由にいかに豊かに生きられるかは、芸術が持っている根本的なテーゼだと思います。

 

ー中島さんが思う豊かな世界はどういうイメージなのでしょうか。

例えば街で言うと、渋谷は再開発によって、駅に直結する形で渋谷ストリームやヒカリエといった複合施設を作り、都市の導線を利便性のもとに繋げている。

こういったノイズや偶然性が排除されている構造は、僕の思う理想の都市空間ではない。

本来、都市は入り組んだ動線の上にまざまな多様性を持った店舗が点在していて、そこを歩いていく中で偶然の出会いがある場所であってほしいと思っています。

偶然を呼び込むことが、豊かさのひとつになるからです。

「偶然性に開かれた社会」というか。でも今の社会は、計画的な必然性の中で全てが動いているので、偶然性を事故として排除したり、炎上として叩いたりしてます。

もちろん原発事故のような偶然性は排除するべきだし、都市の再開発で防災とか耐震が不十分なところは最低限確保すべき課題ではある。

でもそれで偶然性の排除が行き過ぎると、やっぱりのっぺりとしたつまらない空間、社会になっていくと思います。

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